ユトリーヌの東方同人備忘録

幻想をわすれえぬものにする為に…

幻想物語寄稿集より「A girl has nine lives」

  f:id:ogatamakoto012:20180426104215j:image   

  どうも、ユトリーヌです。さて、前記事にて青雲アステロイド様発行「幻想物語寄稿集」の大まかな感想を述べたわけだが、その中でも特に心を揺さぶられた作品「A girl has nine lives」の感想&解釈を綴っていこうと思う。本自体の紹介とかはもうやってしまったので、今回はとっとと内容に入ってしまおうかと。

 

 

 

  以下ネタバレ

 

 

 

 

 

 

   物語は大きく前後半の2つのシーンに分かれている。しかし先にネタバレしてしまおう、この物語の最重要ポイントはその外にあるのだ。ぜひ最後まで読まれたし。

 

 

《前半》

物語は火焔猫燐が沢山の死体を運んでいるシーンから始まる。お燐は死にたての死体との生き生きとした遣り取りを好むが、里で猛威を振るう流行病に倒れた人々は怨嗟を撒き散らすばかり。つまらないと思いながらも、いつものように灼熱地獄後に死体を運び旧地獄のマグマにそれらを落としていく。

  そのうちの1人、白黒のフリルで彩られた小袖を着込まされた老婆だけは荷台に残して、お燐は地霊殿に向かって歩き始める。こいし様にこの死体を持ってくるよう言われているのだ。

  その途中で老婆は目を覚ます。お燐は老婆が力強い死体で、最悪弾幕ごっこすら挑んでくる事を期待していた。しかしその視線は曖昧で、お燐を見ても口を半開いているだけ。彼女は落胆するも良いアイデアを思いつく。「この老婆ほどのポテンシャルを秘めた魂を転載させるのはもったいない、怨霊にしちまえばこいし様ともずっと遊べるじゃないか!」と。

  その時、しわがれ声が地底に小さく響く。「違う」「ここには、空がない」そう言って上を指差した老婆をみたお燐は、一縷の期待をかけて寄り道をする事にした。地上へ向けて、石桜が降る中を猫車は進んでいく…。

 

 

  ここまでで半分。お燐の心理描写を中心に物語が展開している。個人的に印象に残った表現やシーンの感想をば。

⚪︎「今や人間にとって、地底は単純な恐怖と嫌悪の対象に戻ってしまった」

  後々判明するのだが、博麗霊夢はすでに亡くなっている。彼女の影響力がいかに大きかったのかが分かるよね。

⚪︎「人が死ねば魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」

  お燐が怨霊について思考するシーン。“魂”は精気の陽の部分、“魄”は陰の部分。当然老婆もこの理からは普通逃れられない訳だが…?(露骨な伏線) ちなみに魄の働きが過剰になると怨霊になるらしい。

⚪︎こいしが魔理沙の死体を要求している

  マリこい要素。こいしは魔理沙の死体で何するつもりなんですかねぇ…

⚪︎「ゆりかごから墓場まで、か。」

  W.W.2中の英国の社会保障制度のスローガン。今まで何の保証や後ろ盾も無く自由な生き方をしていた老婆(だいたい誰なのか予想はつくでしょ?)へ向けた、お燐の若干の失望も含んだ皮肉なんだろうなぁっていう。

⚪︎「そういえばあの時も石桜が降っていたな」「何も今、思い出す必要なんてないのに」

  空を見せろと訴えかけるような老婆を地上に連れて行く途中でのセリフ。旧い記憶を思い出す必要はない、期待しない方が良いという思い。それに反するように、昔の彼女を思い出し、期待してしまうような思い。それが複雑に入り混じっていることが読み取れる。石桜の表現の美しさも相まって印象深いシーン。

 

 

《後半》

  地上へ戻って来たは良いものの、老婆は意味不明な言葉しか発しない。お燐は憤懣のこもった声で言う。「やっぱり分かんないのかい…。人間は勝手だ。誰かの在り方に食い込んでおいて、あっさりと去っていく。残された者はたまったもんじゃァない」

  しかし日が昇って老婆の目に博麗神社が写ると、彼女は先ほどまでと別人のような声で「霊夢はどこだ」と問いかけた。「あんたの知る霊夢はずっと先に行った」そう聞いた老婆は猫車に拳を叩きつけて言う、「霊夢を追いかける!」と。

  「遅すぎるってことは絶対にない!私を信じろ!」などと我が儘な無茶苦茶を言う老婆を前に呆れるお燐は、しかし彼女が取り出した物を前に圧倒される。その魔道具、八卦炉はとんでもなく傲慢に暴力的に光道を切り開いてきた。そしてそれは誰のものでもないこの老婆だけの道だった。

  巫女には絶対に追いつけない、頭では分かっている。しかしこの老婆の歩んできた道に想いを馳せたお燐は、「あたいは最後に一つ、悪党に騙されちまったんだ」そう自分自身を納得させて彼女の力になる事を決める。

  そうして老婆は荷台に仁王立ちして一言ずつ詠唱を絞り出すのだ。

「私は」「普通の魔法使い」「霧雨、魔理沙だぜ」

  猫車に八卦炉を取り付けて際限なく加速しながら天を走る魔理沙。彼女自身の体を、命を、魂を、青い炎で燃やし尽くしていく。それでも彼女は止まろうとしない。

  そして全てが燃え尽きるその時、魔理沙は幻想郷を睥睨しながら“last spell”を呟くのだ「綺麗だ。本当に綺麗だ」

  その日、幻想郷の住人は皆、飛び去る光を見た。また別の奴は猫の声も聞いたらしい。あんまり光が目映いから、異変かと当代の巫女が追い掛けたが。追いつくことは出来なかった。いや、誰の手でも届かなかっただろう。

   光が何処へ行ったのかは、誰にも分からなかった。ただ、夜毎に空を眺める1人の夢想家だけが気付いたらしい。新しく夜空を廻る、小さな星屑に。

  そら、今流れた光がそれだ。

 

 

  ストーリーの全容である。何があっても霊夢に追いつくという魔理沙の強い想い、そしてそれに心動かされるお燐の喜び。それらを強く感じ取ることができた。印象的なシーンの感想をば。

⚪︎前半の「人が死ねば魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」の伏線回収

  無茶苦茶なやり方で我が道を進んで来た魔理沙はやはりタダでは死なない。魂も魄も全て燃やし尽くして星になるってんだから流石だとしか言いようがない。

⚪︎「本当、人間ってのは勝手なもんだよ。自分の思うがままに好きなことして、終いにゃ誰かの在り方にまで食い込んでさあ」「私らはね。すぐその気になっちまうのさ。全くみっともない話だけど、容易くコロンといっちまうのさ。でも、そしたらあんたらはあっさり去っていく。私らはいっつも置いてけぼり。ああ、本当に勝手なもんだ。残された者はたまったもんじゃァない」

  お燐のセリフの中でも1番心揺れる部分。人間と妖怪の関係への言及。確固たるアイデンティティを持ってそこに存在するからこそ、それに愚直かつ残酷に従わないと自分の在り方を喪ってしまう妖怪。そんな彼女らの在り方にとんでもない熱量を擁して喰い込んで行くくせに、すぐ移り気に風に溶けていってしまう人間。妖怪たちはいつも惑わされるのだ。声に力が入りながらもやりきれない思いを誤魔化そうとするお燐の心情表現にグッと来るものがある。

⚪︎「この魔道具がとんでもなく傲慢に、暴力的に切り開いてきた光道のことが。例えルーツが何であろうとも、それは最早誰のものでもない、この老婆だけの道だった。」

  ここ本当胸熱シーン。マスタースパークはまさに魔理沙の歩んできた生き方の象徴。まさに意志の強さが成せる業だよね。

⚪︎「あたいは最後に一つ、悪党に騙されちまったんだ」

  魔理沙霊夢に絶対追いつけない。生前も最後まで追いつけなかった上に、もう霊夢は死んでいるのだから。頭ではそうわかっていても、魔理沙の生き様と強い意志を見せられたら出来る気がしてくるからしょうがない。騙されてやろうじゃないかっていう。お燐が期待していた以上の意志の強さを魔理沙は持っていたわけだ。

⚪︎「私は」「普通の魔法使い」「霧雨、魔理沙だぜ」

  物語終盤までためにためての、この胸熱な名乗りよ。霊夢に追いつくために無茶苦茶なことをやっていながらも、あくまで“普通”と名乗る。ほんとイケメンでズルいと思う。

⚪︎「綺麗だ。本当に綺麗だ」

  燃え尽きる魔理沙が幻想郷を見て最後に呟いた一言(last spell)。魔法使いになるために実家を捨てたように、何かを得るためには自分の居場所さえ厭わない魔理沙。その彼女の最後の言葉がこれだよ。泣くでしょこんなん。幻想郷がいかに美しく、雄大な世界なのか。このシーンを通して想いを馳せてみようと思う。

 

 

  さて、ストーリーの全容には触れたわけだが、解釈をする上で2つ忘れていることがないか?片や物語を一言に要約した象徴的な言葉である「タイトル」、片や著者の思考が最も直球で現れる部分「あとがき」である。

  あとがきにこのような記述がある、「副題を『fiery road』にする案がありました。謝罪します。凋叶棕が、私の中のなんか悪いのを刺激するんです。全部アスタリスクの夢です。」

  まずタイトルの考察。「fiery road」直訳で「炎の道」。これはまさに燃え尽きながらも止まらなかった魔理沙の、霊夢の元へと続く道の事だ。だが実際のタイトルは「a girl has nine lives」である。これはお燐が文中で「猫を殺すと、九生祟る」と発言していることから“a cat has nine lives”という猫の執着心の強さを表したことわざのもじりと見てまず間違いない。ならばこのタイトルは少女、魔理沙霊夢に対する執着心の強さを表しているわけだ。

  ここで問題になるのは、このタイトルの変化が「凋叶棕が、私の中のなんか悪いのを刺激」した結果起きた事であるという点だ。先ほども述べたようにあとがきは著者の思考が最も直接的に現れる部分。そこでこの記述である。つまり著者は“明確な悪意”を持ってタイトルを変更した訳だ。

  またこれも先ほど述べたがタイトルは文章全体の象徴であり、著者はそれを変更したのである。つまりここまでをまとめると《この物語は「魔理沙霊夢に追いついていく道のり」が描かれたものではなく、悪意の元で「魔理沙霊夢に対する執着心」が描かれたものだった》という事になる。

 

  次にその後の発言「全部アスタリスクの夢」の考察。アスタリスクは原語でいうと“小さな星”。また、この物語において星が魔理沙を指す事は自明だろう。「全ては小さな星(魔理沙)の夢」だというのだ。

  そしてこれも、著者が明確な悪意を宣言した上で言及されている。そうであるならば《全てはちっぽけな魔理沙の願望に過ぎない》と解釈できてしまうのではないだろうか。

 

  結局の所、著者はこう言っているのである。「無理無理、魔理沙霊夢に追いつけないよ。全部あいつのエゴから出た妄言だから(笑)」

  魔理沙ならやってくれるかもしれない…というお燐や読み手の淡い期待は一刀両断!  やはり凋叶棕によって幻想に誘われた人々の描くものは一筋縄ではいかないぜ…(遠い目)

 

  でも安心されたし、あとがきは希望的な言葉で締めくくられている。「>八卦炉を讃えよ‼︎」八卦炉、そしてマスタースパークは魔理沙の生き方そのものであり、それを讃えよという呼びかけだ。

  そう、霊夢に追いつくという未来は否定されたとしても、彼女のそのエゴエゴしい生き方は讃えられるべきであることに変わりはないのだ…!

  見る角度、人によって多様な魅力を感じさせる霧雨魔理沙。追いつけないのに頑張っている彼女に光を見出すか、絶対に追いつけない霊夢に強い執着を抱く彼女に闇を見出すか。そこは各人の自由である。私はバッドエンド大好きマンなので、このような解釈になってしまいました。後悔はしていない。

 

 

以上、こんなところだろうか。一点だけ、ラストシーンの「1人の夢想家」が誰なのかがわかってないのが問題。こういうシーン見るとすぐに紫かな?と思ってしまう癖があるので、だれか正しい解釈教えてください(懇願)

 

  作者の卯月秋千様は、四面楚歌製作の同人ゲーム「秘封祭」で初めて知って以来とても好きな作家の1人。幻想少女たちの複雑な感情を見事に描き切る、美しい心情表現が魅力だと思っている。第15回例大祭にてサークル「相乗り回転ブランコ」名義で 新作を配布なされるので是非とも手に入れたい。

 

  このような素晴らしい作品を作り出してくださった卯月秋千様、幻想物語寄稿集を企画者のはーしぇん様、凋叶棕主宰RD様、そして幻想の生みの親ZUN様への感謝を持って備忘録を締めたいと思う。

 

  さて、しばらくは例大祭の戦略立てなきゃね。