ユトリーヌの東方同人備忘録

幻想をわすれえぬものにする為に…

凋叶棕における「アリス」の解釈 何故に アリス は「アリス」足り得るのか

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 現存する最古のアリス

 

    どうも、ユトリーヌです。ここ最近はRDさんが積極的にJOYSOUNDへ改の曲を投稿して下さっている。カラオケ大好きマンの私としては嬉しい限りだ。まだ歌うことはできていないのだが、時間が空けば「絶対的一方通行 〜 Unreachable Message」を5周は回すつもりでいる。

    さて、その新たに投稿された曲の中に「ヒカリ ~ Miscarried Princess」がある。

    新たにアリス像を垣間見る為の燃料が投下されたこのタイミングで再考してみたのが「アリスとは何ぞや」という問い。

    そう、今回はパンドラの箱を開けることを試みようと思う。すなわち

 

    凋叶棕における「アリス」の解釈

 

である。あぁ、禁忌禁忌。これはいけない。果たして誰得なのだろう。

 

    「アリス」とは一体何であるのか、何故に アリス は「アリス」足り得るのか。

    凋叶棕考察における牙城にほんの少しでも穴を開ける為の基盤を作るべく、幻想を掴み取っていく。

 

 

 

 

 

 

 

結論

    始めに結論を述べよう。本当は「アリス」はRDさんの触れてきた全ての幻想を総括した言葉であり、本人以外に理解することなど不可能な概念だとは思う。しかしそこに愚かにも解釈を試みて、より核に近い部分の概念を一言で表すのであれば

 

    「アリス」はエゴイズム、及び人の”思考”のイデア。そしてこれをキャラクターの形に落とし込んだのが「アリス・マーガトロイド」なのではないだろうか。

 

 

 

    説明していこう。これ以降、概念としてのアリスを「アリス」、キャラクターとしてのアリスを  アリス  (特別な記号なし)と表記する。

 

    なお、非常に長い上に人によっては当たり前の事を暫く述べることになるので、メインである「「アリス」が色濃く滲み出る曲たち」以降から読み始めてもらっても構わない。

 

 

 

“思考”の無限性と絶対性

 

    根拠を述べる前に確認しておきたいことがある。それが“思考”の無限性、絶対性だ。

 

    人は脳内に広がる無限の宇宙の中で、一切の枷無く飛躍し続けることができる。そこに物理法則の壁は存在しない。全てがイデアの影でしかない現実世界とは違い、思考によって得たものは全て真実。

 

 

    そして究極的には自らの外側からの影響の枷もないと言える。よくある例を挙げていこう。

    アフリカで貧しい子供達が日々の中の小さな出来事で幸せを感じる一方で、先進国で豊かな暮らしを送りながらも自らを不幸と断ずる人がいる。

    同じ曲を聴いて琴線に触れて涙を流す人もいれば、主張の青臭さに恥ずかしさを覚える人もいる。

    人を傷つけることに快楽を見出す人もいれば、傷つけられることに快楽を覚える人もいる。殺されることに快感を抱くオートアサシノフィリアなんて性壁も存在するのだから収集がつかない。

 

    自らの外部から与えられる刺激をどう捉えるのか、その最終決定権を有するのは自らの内面だ。そうである以上人の思考にとって、外的な影響は枷にならない。

 

    この事について疑問を覚えるならもう一つだけ例を挙げよう。尊厳死についての問題が分かりやすい。生物である以上、生存欲は誰もが抱くものであり、本来逆らうなんて事態にはなり得ない。しかし人の深い思考によってそれを覆すことができてしまうからこそ、この問題が生まれたのである。

    人の内面の飛躍は、外側からでは決して止められない。

 

 

    ただ、思考の枷となり得るものが一つだけある。それが「知識」だ。知識は思考の基盤となる。それが不足していれば当然無限の宇宙を自由に飛び回ることは出来ない。よって思考を飛躍させる為に必要となってくるのが学習や研究である。

 

 

    以上のことを軽くまとめよう。

⚪︎“思考”をする上で枷となり得るのは知識のみである。それ以外によって“思考”を止めることは決して出来ない

⚪︎知識を得るためには学習や研究が必須

 

 

    当たり前といえば当たり前の事ばかりだが、後の「アリス」解釈で重要になる点なので押さえておこう。

 

 

 

何故「アリス」はエゴイズム、及び“思考”のイデアであるのか

    それでは具体的に凋叶棕曲によって描かれるアリス像を解釈していこう。しばらく各曲で登場するのはキャラクターとしてのアリスであるが、彼女の行動や心境を一つ一つ紐解いていくとそこに概念としての「アリス」像が現れる。RDさんが抱いた“思考”のイデアが垣間見える。

 

 

「研究と追及」の象徴たるアリス

    さて、凋叶棕曲は様々な形でアリスを描いているが、その中でもとりわけ多くの曲で印象的に表現しているのがアリスの「研究と追及」の側面だ。

 

  • 「砂鉄の国のアリス」etc...

    時系列的に見て、彼女のその様子が最初に現れるのは「シノショウジョ」。そこから「その扉の向こうに」を経て幻想郷に訪れたアリスは命の研究を重ねる。その様子が描かれたのが「砂鉄の国のアリス」や「ヒカリ ~ Miscarried Princess」等々。「墓標」や「somewhat trustworthy」もその一環だとする説もある。

 

    各曲でストーリーや曲のつながりには様々な解釈が存在するが、一貫して言えるのはアリスが自らの研究と追及の為に多数の犠牲を払っているという事、それにに対してアリス自身が罪の意識を感じていないという事だ。

 

 

    ここに「アリス」が“思考”のイデアである一つの根拠がある。再度“思考”について先述したことを述べると

 

⚪︎“思考”をする上で枷となり得るのは知識のみである。それ以外によって“思考”を止めることは決して出来ない

⚪︎知識を得るためには学習や研究が必須

 

であり、凋叶棕曲で描かれるアリス像に合致するのだ。

 

    アリスが“思考”の具現化であるならば、他人に彼女を止めることは決して出来ない。そして彼女は「研究と追及」を経て飛躍し続ける。

 

    また当然これらの行為は彼女の「命を知りたい」という欲求、エゴから来ているものである。自らの欲のために他人の犠牲を顧みないアリスは「エゴイズムの具現」と形容することもできるだろう。

 

 

 再度掲載。始めに見た時とは違った意味に見えるかもしれない 

 

 

    そして“思考”として高みを目指し続けたアリスはいずれ、魔界の唯一神にして「ヒカリ」の創造主である神姫を超えることもあり得るのではないかと考える。

   というのも「徒」の収録曲「交響詩「魔帝」より Ⅲ.戴冠式」と「逆」のインスト曲「交響詩「魔帝」より Ⅱ.  神話幻想」の存在があるからだ。

   

    後者の原曲が神姫のテーマであることから魔帝とは彼女のことを指すと考えれる。また「逆」のテーマが“逆転”であり次曲が戴冠式であることから、「交響詩「魔帝」」はアリスによる神姫への反逆を描いた曲であると解釈できるのである。

 

 幻想郷における神とは違い、魔界における神姫は絶対の存在。1キャラクターであるところのアリスが神姫を超えるなどといったことは本来あり得ない。それではなぜこのような逆転現象が起こったのか。それはアリスが”思考”の具現であるからだ。

 実存には何かしらの限界が存在し、絶対の神は決して超えることができない。しかし彼女は”思考”という天井のない概念の具現であるからして、それが可能となるのである。

    この逆転現象から考えると、「現実世界においては到底かなうはずのない唯一神を超え、完全な存在となったアリス」イデアへと到達した“思考”」という構図を見出すことが出来るのだ。

 

 

    この解釈に関してはまだ交響詩交響詩.Ⅰ が発表されていないことや、「ヒカリ ~ Miscarried Princess」の

神になろうとして
光になろうとして
世界を作りあげる真似をして…

そのあまりにも、拙い人形遊びは、止め処無く続いていく。

04 ヒカリ ~Miscarried Princess - 東方同人CDの歌詞@wiki - アットウィキ

という歌詞からいくらでもひっくりかえりそうではあるのだが、説を補強する為の一つの可能性と考えてもらいたい。

 

 

  • 「学習 < 研究」によるエゴイズムの形成

    知識を得る手段として学習や研究を挙げた。ここでは学習を「先人の知恵を吸収する行為」、研究を「独学で知識となる事象を発見する行為」とする。

 

    凋叶棕曲においてより強く描かれている行為は圧倒的に「研究」だ。先に挙げた曲らがそれに該当する。逆に「学習」の場面が描かれている曲は「Peaceful Distance」位のものだろう。その上これのメインはパチュリーの心情についてであり、アリスの「学習」についての曲ではない。

 

 

    「学習」は他人の思考を自らの中に取り入れる行為であるのに対し、「研究」は自らの思考を突き進めていく行為。後者は前者に比べ、圧倒的に“我”が強い

    これだけでなく「森で引きこもって”一人で”ひたすら研究してるのがアリス」的な呟きは見受けられる。より“我”の強い行為を引きこもりながら一人で行っていれば、そりゃあエゴイズムはより強い形で形成されていくよねっていう。

 

 

    『「研究」の方が物語にしがいがあるから多いだけでしょ。「学習」だってちゃんとやってるわ‼︎ 』という反論が帰って来そうだ。たしかに見えないところでそれ相応の「学習」はしているはずだし、「研究」の方が物語として映えるというのは全面同意。

    しかし今回はキャラクターとしてのアリスの物語というよりは、あくまでRDさんの抱く概念としての「アリス」を解釈しようという試み。彼の創る作品により色濃く「研究」が滲み出ているのなら、それを汲み取っていくべきだ。

 

 

 

    兎にも角にも、アリスが「研究と追及」の象徴であるが故に「アリス」が“思考”のイデアであること。同時にアリスがエゴイズムの具現でもあることが分かるだろう。

 

 

 

 

「アリス」が色濃く滲み出る曲たち

    さて、ここまではキャラクターとしてのアリスの行動や心情から概念としての「アリス」を掴み取って来た。ここからは概念としての「アリス」が直接描かれていたりと、より色濃く「アリス」が滲み出る曲の解釈を行なっていく。具体的には「アリスのわすれもの」「少女人形」「アリス・ザ・エニグマティクドール」の3曲だ。

 

 

  • 「アリスのわすれもの」

    幻想少女たちが忘却した物語たちを紡いだアルバム「音」  果たして彼女ののわすれものとは一体何なのであろうか。

    この曲、Googleで検索をかけると一番上に「アリスのわすれもの  考察」と出る程度には難解な曲。そもそも「音」自体がてぃあお力が高めじゃないと意味がわからないアルバムだったりするのだけれど……。

 

 

 

    最初に確認しよう。この曲の主体はアリス・マーガトロイドではなく旧作アリスである。

 

    虚ろな表情のアリスが怪綺談三面アリスばりに両側に上海人形を侍らせているのだが、どうも主体は悪戯じみた笑みを浮かべる旧作アリスのようである。シノショウジョの指から延びた何やらの紐が、マーガトロイドに絡みついている。多くの感覚等を司る、脳幹の神経系を模しているのだろうか。
    さて、旧作アリスとWin版アリスは連続性を明言されながらも、在り方に大きな解離がある。そこをどう結びつけるかは、アリス愛好家の長年の悩みであり嗜みでもあった。
この曲では、Win版アリスに対しての潜在意識として、根幹としての旧作アリスが存在を主張する。その関係性が、終盤で「不思議の国(すなわち幻想郷)」と「鏡の国」として隠喩されているのも興味深い(何故なら、鏡の国のアリスのラストは「主体と客体の不確かさ」が描かれているのだから!)

 

        卯月秋千先生 Privatterより引用

凋叶棕「音 omoi」についての刹那的感想 「RD-Soundsは『もののあはれ』の作家である」 - Privatter

 

    卯月先生の解釈が非常に分かりやすい。アリスがわすれてしまいながらも、その根幹に居残り続ける哲学。変わらないアリス・マーガトロイドの理念を歌ったのがこの曲だ。

 

 

    さて肝心なその哲学の内容だが、アリスが「研究と追及」の象徴である事を踏まえて聞き直してみるとかなり分かりやすいのではないだろうか。

 

    何かを知るために何かを崩すのが正しいことだと誰も知らない。

    魚達は血に群がり、猫は獲物で遊ぶじゃない。私だって悪いことはしていない。

    『幻想郷』は私の遊び場なのだから、なんだって許される。

    何かが動き、止まるまで。時が始まり、終わるまで。一つの秩序を解き明かす!

 

 

    先述した文章を繰り返すと、読み取れるのは

    アリスが自らの研究と追及の為に多数の犠牲を払っているという事、それにに対してアリス自身が罪の意識を感じていないという事

そして何より、彼女の“追及”の姿勢だ。

 

    彼女が、決して止めることの出来ない“思考”とエゴイズムの具現であることの最大の根拠がこの「アリスのわすれもの」である。

 

 

    少し話はずれるが「はじまりのクロ おしまいのシロ」と「七色の魔法」については卯月先生の解釈がビンゴだと思うので是非読んでみて頂きたい。

 

 

 

  • 「少女人形」

 

    続いては凋叶棕随一の闇アルバム「夢」  アリスの地雷をとことん踏み抜いていこうと思う。

 

    その前に彼女の「人形使い」としての側面について少し考えたい。

   彼女は操る人形達は総じて中身を持たない。人の形をした器、人の型、ヒトガタでしかないそれらを“思考”の具現であるアリスが動かすその様は、頭や心といった内面部分が外面部分である身体を動かしている構図に近い。

    繰り返そう。アリスは「操る側=内面=絶対性を孕んだ“思考”」であり、人形は「操られる側=外面=中身のない器」に過ぎないのである。それを踏まえて曲を聞いていこう。

 

 

    さて「夢」のB4Fに位置するこの曲はアリスの悪夢を歌ったものだ。よってここで描かれるのは総じて、彼女にとっての恐怖。その恐怖の正体を一つ一つ紐解く。

 

 

    アリスが目を開くとそこには、一様にアリス自身と同じ顔をした無数の少女達。当然人形の『主』である彼女は操作を試みるが、その声は届かない。そして中心に居座る一際大きな少女はアリスに問うのである。

 

    例え素体(からだ)が自由に動かせたとしても、その心を操る糸がないと   ど    う    し    て    言い切れるの?

 

    あなたの生きてきた世界がただの幻想でないと保証するものはないのに、そうと    ど    う    し    て    言い切れるの?

 

    ほら、あなたはただのヒトガタに過ぎないのに  ねぇ?

    

 

    アリスにとっての恐怖の一つ目、それが「絶対性の消失」

    何度も述べている通り、アリスは“思考”の具現である。そしてその“思考”は知識以外に枷が存在せず、止めることのできない絶対的なものであるのだ。

    しかしこの悪夢はそれに疑問を呈する。

    素体(からだ)を自由に動かせたとしても、その心を操る糸がないと    ど    う    し    て    言い切れるのか。アリスが「操作する側=絶対性を孕んだ“思考”」である事を疑う。

    あなたの世界がただの幻想ではないと、誰も保証してくれないのにそうと   ど    う    し    て    言い切れるのか。“思考”や内面は絶対性を孕みながらも、その根拠は実存せず自分の中にしか存在しないしない事を突いてくる。

 

    あげくアリスはヒトガタ「操られる側=中身のない器」に過ぎないと言うのだ。これが二つ目の恐怖「内面である事の否定」

    アリスは“思考”、“エゴイズム”といった人の内面部分の具現化である。そんな彼女を人形だと断ずること、中身を持たないただの器でしかないと突きつけること。それは彼女という存在を完全否定することと同義だ。

    

    「絶対性の消失」「内面である事の否定」  存在そのものを否定するそれらを前に、アリスの精神は蝕まれていく。

    しかし悪夢はまだ終わらない。

 

 

 

    己の自意識が虚ろになる。己の拠る場所、誇るべき“思考”の絶対性が削られていく。己を繫ぎ止める唯一残された鎖は「アリス」という名。

    しかしその悪夢はその名を名乗ることを許さず、無慈悲な判決を下す。

 

    この罪人形

        アリス偽証罪

            アリス詐欺罪り

                アリス窃盗罪し

                    アリスでないのに

                        アリスであるという

 

    畳み掛けるように悪夢は問う。

    

    アリスという名を名乗りアリスという言葉を重ねただけで、あなたがアリスであると    ど    う    し    て    言い切れるの?

 

あなたはただの生けるヒトガタ、その全ては作られた幻。それを誰も否定しないのに そうと    ど う し て 信じられるの?

 

    

 

    自らが無限性と絶対性を持つ誇るべき存在である理由であり、最後にして最大のidentity。それがアリスという名。悪夢はそれを否定する。アリスが「アリス」である事を罪とし、判決を下すのだ。

 

    そう、これが彼女にとって最大、最悪の恐怖  「「アリス」の否定」

 

    無限の可能性と絶対性を有し、何者にも止めることのできない“思考”。それが「アリス」であり、アリスがアリスたる所以である。それを否定されてしまった時アリスという実存は存在意義を無くし、そこにはまさに中身のない器、生けるヒトガタだけが残る。

 

 

    こうして全てを否定された『少女≠人形』『少女≒人形』に。『少女≒人形』だった悪夢は『少女≠人形』に。真の姿を暴き出し、立場を逆転させた悪夢は最後の問いを投げかける。

 

 

 

   己が己たる所以を知っているのはその心だけ、然るに儚いエゴでしかない。それが    ど    う    し    て    正しいのか?

 

    もし、己が手がけた人形に心が宿ったのなら。「心」は真正であると そうと    ど    う    し    て    信じられるか?

 

 

    この問いは「アリス」とアリス、それぞれの抱える矛盾への言及だ。

 

 

    “思考”の無限性と絶対性、その根拠は実存しない。自らの中にしかない。そうであるならば、それは儚いエゴでしかないのではないか。

    概念としての「アリス」の抱える最大の矛盾

 

    外側からは決して止めることのできない、独立して絶対であり続ける内面部分。外側から創り出すことのできてしまったという時点で、それは真正な「心」では無いのではないか。

    仮にそれが真正な「心」ーー内面部分であるならば、“思考”という内面部分のイデアである「アリス」も外側から創り出すことのできる概念だということになってしまい、その絶対性が失われてしまうのではないか。

    アリスが自律人形の創造、「心」を生み出す事により生じる矛盾。

 

 

    アリスはこれらに答えを返す事が出来ず、自らはただのヒトガタに過ぎないのかと絶望するのである。

 

 

 

    以上が「少女人形」の解釈。アリスに投げかけられた問いはどれも、“思考”の抱える弱みからくるものだ。この曲も「アリス」が色濃く滲み出たものの一つと言えよう。

 

    そしてここで思い返してみてほしい。これらの疑問を突きつけてきたのは、何も世の全ての理を知った超常的な存在などではない。あくまでこれは「夢」。 アリスが自ら作り出した幻影であり、彼女の潜在的な意識が浮き出たものだ。

    そう、あれらの恐怖と問いはアリス自身が抱える自己矛盾。彼女の更なる飛躍の過程で、いつか乗り越えなければならない壁なのである。

 

 

 

 

 

 

    幻想少女達の秘密を覗き見る、趣味の悪いアルバム「密」  その中でもこの曲は「暴く」という行為を強く押し出しているように思える。アリスが「アリス」の具現であるが故に成立する解釈を通して、その行為の独善性と少年の動機を紐解いていく。

 

 

    始めに原作には存在しないキャラクター、所謂「オリキャラ」について考察したい。これは自論になるのだが、オリキャラが二次創作に登場するとき、そこには2つの意図があると考えている。

    1つは、既存のキャラクターでは果たし得ない役割を担ってもらう事。凋叶棕で言えば霧島リサ、ソメヤetc...   そしてもう1つが、作者本人に近い思想を持たせて代わりに主張をしてもらう事。よくあるオリキャラ幻想入りものの主人公なんかは、このタイプが多い気がする。

 

    凋叶棕曲のオリキャラはほぼ全員が前者であり、物語の展開を豊かにしてくれる存在として登場する。しかし「アリス・ザ・エニグマティクドール」の少年だけは特別で2つの意図を内在する、つまりRDさんの思想がにじみ出ているように思えるのだ。

 

    最大の根拠が、少年に「ロストドリーム・ジェネレーションズ」的、「エクスデウス」的思想が見て取れるということ。

    凋叶棕の中でも「ロストドリーム・ジェネレーションズ」は、私たちの現実世界へのアンチテーゼというような面が強いように思える。描かれるのは未知を暴いた先の虚無感と空白。

    またFeuille-Morte名義の曲「エクスデウス」おいても、同等の主張がなされている。こちらに関しては更にその先をも示唆する美しい物語に仕上がっているのだけれども。

    双方共に幻想少女への解釈ではなくRDさん自身の主張がなされた楽曲。この「未知を暴いた先の虚無感と空白」という思想を少年から感じられる一幕がある。

 

    悪しき魔女の正体を暴き晒し、勝利宣言とも取れるような言葉を紡いだ少年はふと自らに問う。

でも
その全て暴いた暁
その先には何が待つのだろう

奮う蛮勇 返す忘憂
一途な思いに突き動かされ

06 アリス・ザ・エニグマティクドール - 東方同人CDの歌詞@wiki - アットウィキ

    暴いたその先に対して疑問を抱き、「暴く」という行為を蛮勇、忘憂だと断ずる。これはまさにRDさんが過去に描いた思想そのものではないか。

 

    その他にも、少年からはアリスへの深い追求の姿勢が感じ取れるし、アリスに焦がれてるし、アリスに独善的なエゴを押し付けてるし、

 

 

らしいし。これについてはRDさんはアリスから声をかけてもらいたいと仰ってるのでちょっと違うかもしれないが。

 

    とまあそんなところで、この少年はRDさんの思想が強く反映された存在であると言える。彼のアリスに対する姿勢から「アリス」を読み取ることができよう。

 

 

    しかしここで言わせてもらいたいのが、あくまで“少年=RDさん”ではなく、“少年≒RDさん”であることだ。何故なら少年は「作者本人に近い思想を持たせて代わりに主張をしてもらう」ためのオリキャラというだけでなく、「既存のキャラクターでは果たし得ない役割を担ってもらう」ための存在でもあるからだ。

 

 

    少年についてもう少し深く解釈してみよう。

    彼は命のない人形の命観る演技を「本質を隠しうる魔法」とした。少年にとっては人形の中身こそが本質であるらしい。  あれ?  誰かさんも確か、“内面部分”を本質とし、それが否定されることを怖がっていたような……。

    少年は蛮勇とも形容できるような一途な思いで事を成し遂げたらしい。  あれ?  誰かさんも確か、“思考”という在り方によって、目標のために研究と追求を重ねていたような……。

    この曲では最後を除いた全てが少年の一人称で描かれ、アリスの内面は直接描写されない。また彼の行動動機も全て彼の独善によるものであり、アリスへの一方的な思いの押し付けである。  あれ?  誰かさんも確か、自らのエゴによって行動し、他を顧みなかったような……。

    そして少年は、人形の首をはねるという行為によって“思考”、内面の具現であるアリスを暴き出した。  あれ?  誰かさんも確か、「何かをしろうとして何かを壊すことが、正しいことだと誰も知らない」と言っていたような……。

 

 

    もう言いたいことはお分かりだろう?  先述したことも踏まえると、少年はRDさんの追求の姿勢、“思考”の反映されたエゴイズムの具現である。

 

 

    即ち少年はRDさんであると共に「アリス」の具現なのだ。

 

    

    「アリス」と「アリス」の邂逅を描いた曲、それが「アリス・ザ・エニグマティクドール」

 

 

 

    さて、そんな少年がアリスの内面を炙り出し何をしたかというと、まず盛大に地雷を踏み抜いていく。即ちアリスを”素体”ではないかと、ヒトガタに過ぎないのではないかと疑問を呈するのだ。この質問がアリスにとってなにを意味するか、「少女人形」を読み解いた皆さんにはお分かり頂けるだろう。

    そして少年のしたもう一つの行為が、アリスを『自己愛の権化』と断じたこと。少年がRDさん的思考を持っているのであれば、「アリス」が自己愛、エゴイズムを内包した概念であり、アリスはその具現であることの証明となるだろう。

 

    曲を聞く私たちからしたら、エゴイズムの権化がエゴイズムの権化に『自己愛の権化』と言い渡すハイレベルな状況。

ええ、非常にアリスですよ。アリスアリス……。

 

 

    この状況を是非、アリスの目線から考えて欲しい。ほらそこの君、アリスの目線でものを考えるなんて不可能でしょとか言わない。頑張れ。

     自らの鏡合わせのような存在が現れて、暴くという独善的な行為、一方的な思いをぶつけられる。挙げ句の果てにそいつは自らを指して『自己愛の権化』などという言葉を発するのだ。アリスは明確に“エゴをぶつけられる側”の心情を味わったのである。

 

    結局のところ、アリスはそれらに返答することなく少年を9人目にしてしまうし、彼女の内面は直接描写されない。少年からは狼狽えているように見えたらしいが、他人の感情を読み取る上でエゴイスティックな彼の感覚は当てにならない。

    しかし、常に自らの目的の為、研究と追及の為に他を顧みない“思考”を貫いてきたアリスが、「アリス」という在り方を客観視するという事。彼女にとってこの出来事がいかに大きいものであるかは想像に難くない。

 

    これからのアリスの飛躍の中で、何かしらの形で影響することになるだろうと思うのだ。もしかしたらこの出来事によって潜在意識に沈んでいたエゴの儚さが表面化して、悪夢を見るようになったのかもしれないしね。

 

 

 

 今後の「アリス」について

 ここまで色濃く「アリス」が滲み出る曲の解釈を行なってきた。

 

 根幹に居座り続ける飽くなき追求の姿勢を描いた「アリスのわすれもの」

 避けられぬ自己矛盾への問いかけを描いた「少女人形」

 「アリス」と「アリス」、自らの鏡との邂逅を描いた「アリス・ザ・エニグマティクドール」

 

 これらはアリス曲の中でも最新の3曲(「随」に『仲良し村の八人の仲間たち』があるが、蓬莱人形よりの楽曲である上に、アリス曲としては「アリス・ザ・エニグマティクドール」と同じ場面を描いたものであるので割愛)である。

 「改」あたりまでの曲は、キャラクターとしてのアリスの行動を描いてそこから概念としての「アリス」を読み解くようなものであった。対して最近の曲は直接、概念としての「アリス」を描写したものが多い(アリス曲に限らず、凋叶棕曲全体が抽象的な概念を取り扱うことが多くなってきている気がしないでもない)。

 キャラクターのアリスが辿る道のりを考察する場合、曲が発表された順番は時系列に直接関係しないので気にする必要は一切ない。しかし今回解釈しようとしているのはRDさんの思い描く「アリス」像であるので、これを無視するわけにはいかない。

 

 おそらく「アリス」という概念は今、再考されるべき時期を迎えているのだと思う。10年という時を経て、凋叶棕は「祀」を区切りに新たな始まりを迎えた。その中で「アリス」という概念、アリスという少女もまた、新たな飛躍を始めるのである。

  そういう意味で、個人的には次に来るアリス曲が大きな意味を持つのではないかと考えている。「アリス」とアリスの次なる歩みは果たしてどのような方向へと進んでいくのか、非常に楽しみだ。

 

 

 

 

 

まとめ&補足

多元的なアリス

 さて、もう一度結論を述べておくと

 

 「アリス」はエゴイズム、及び人の思考のイデア。そしてこれをキャラクターの形に落とし込んだのが「アリス・マーガトロイド

 

 である。そしてこれを基にした楽曲解釈も同時に行ってきた。ここまで読んでみていかがだっただろうか。恐らく納得のいっていない部分も多いのではないだろうかと思う。

 再度冒頭に記した文章を載せよう。

 

    始めに結論を述べよう。本当は「アリス」はRDさんの触れてきた全ての幻想を総括した言葉であり、本人以外に理解することなど不可能な概念だとは思う。しかしそこに愚かにも解釈を試みて、より核に近い部分の概念を一言で表すのであれば・・・

  

 そう、あくまでこの結論はより核に近い概念を模索したものであって、「アリス」という概念すべてを包括した言葉ではないからだ。

 

 実は「アリス」とは一体何であるのか、RDさん本人が明文化している。

 

 これが正しい結論。異論は認められない。

 

 しかしこれだけでは凋叶棕楽曲における「アリス」を解釈しきるには不十分であることもまた事実だ。よって私たちはアリス曲を考察するために、より具体的に「アリス」という概念をくみ取っていかなければならないのである。

 その一環として今回は、楽曲とRDさんのツイートから読み取れる最も「アリス」の根幹に近いであろう部分を模索したというわけだ。

 

 

その他のアリス曲

 今回触れられていないアリス曲に関しては、この「アリス」の根幹からは外れているように解釈している。しかしそれでも「アリス」を表現した曲であることは変わりない。むしろ「アリス」を解釈するうえで、また違った視点を私たちに提供してくれる重要なものであるのだ。

 

 

 幻想少女と幻想郷のもしもを描いたアルバム「喩」のアリス曲、「はじまりのワイゲルト」なんかは分かりやすい。

 

Q5.「上海アリス」という名前がアリス・マーガトロイドに由来するという明確な言及は無い。

はいいいえ

 

 本来は「言及されていない」のが正しい。しかし ”いいえ” を選択したとき、物語は動き始める。たとえIF世界であったとしても、そこには確かな幻想が花開く。

 事実であるかどうかは関係ない。「上海アリス幻樂団」のアリスは「アリス」の具現であるアリス・マーガトロイドに由来するという幻想が、RDさんの中には確かに存在するのだ。

 

 楽曲の内容自体は、森鷗外の著書「舞姫」を読めばすぐに納得できるものとなっているので、未読の人は読んでみてほしい。現代語訳verも含め、Web上で全文読むことができる。

 

 すべての幻想の創造主たる神主のサークル名が「アリス」であることの重さ。これがまた「アリス」の絶対性を示唆してくれるのである。

 

 

 この他の曲からも、様々な視点で「アリス」は読み取ることができる。どこかのタイミングでそれらもすべて含めた解釈を提示したいものだ。

 

 

終わりに

 最後に少しだけ綴らせてもらおう。「アリス」解釈のすゝめ

 

 私は凋叶棕を愛する全ての人に、自らの思考によって「アリス」という概念への各自の答えを導き出してほしい。

 何度も述べた通り、私は「アリス」の根幹部分をエゴイズム、及び人の”思考”のイデアと解釈した。アリスについて深く考えるその過程で“思考”の無限の可能性に気づくことができた時、「アリス」という概念の絶対性と美しさもまた感じ取ることが出来るのだろうと思うのだ。

 故にまだこの過程を踏んでいない人がこの考察を読んでしまった時、その気づきの機会を奪ってしまうことになる。いわゆる“ネタバレ”である。

 だからこそもしここまで解釈を読んでくれた人たちの中でまだ「アリス」について考えたことのない人がいるのであれば、是非とも”思考”をしてほしい。この解釈をあなたの答えにしないで欲しい。

 「アリス」という幻想を見出すには、結果を聞くだけでは足りないのだ。”思考”の過程を踏んで始めて「アリス」に出会うことができる

 

 

 ・・・どこから目線なんですかねこれは…。

 

 

 

 さて、「アリス・マーガトロイド」という1キャラクターについて語るだけで15000文字の長文となってしまう程に、凋叶棕の世界観は広大で奥深い。それも唯々曲数が多いだけではなく、一つ一つの物語があれだけ人の心を動かしうるものであるのだ。素晴らしきかな凋叶棕よ。

 そんな美しくも恐ろしい、力強くも儚い… 言葉で表し切ろうとするならばそれこそ「アリス」と述べるしかないような物語を生み出し続けるRDさんをはじめ、CD制作にかかわる方々。そして全ての幻想の生みの親であるZUNさんへ最大限の感謝をもって筆をおこう。

 

 

p.s.凋叶棕は「レイマリと秘封を生贄にアリスをあがめる邪教」とか言われますが、アリスについて考えれば考えるほど彼女が絶対的なものに見えてくるので割と正しいと思います(ぐるぐるおめめ)