Escape Sanctuary「アリス・マーガトロイドは心が怖い」感想 並びに消失した愛しき幻想の為の備忘録
どうも、ユトリーヌです。突然だが、私は以前スマホの壁紙をいつも鬱〜い画像にしていた。凋叶棕関連で言えば「left behind」のブックレット絵だったり、AM:TIGER「恋色目録」に寄稿された例の手紙だったり。中学二年生か何か? と思われるかもしれないが、実際そういう画像が好きだったんだからしょうがない。
しかし今、私のスマホに映し出されているのは満面の笑みをしたアリス・マーガトロイドだ。お、純粋にキャラを愛でられる普通の感性がようやくお前にも宿ったか〜… 違う、断じて違う。私はその笑みを見て可愛い〜‼︎って思ったり癒されたりしているのではない。
私が彼女に向ける視線は完全に、本来遺影に向けるそれだ。その笑顔を見ると、寂しさとやり切れなさが混ざったような複雑な感情を抱いてしまう。しかもそれはアリスだけに留まらず、幻想少女全体に言える事になってしまっているのだ。
この変化がいつ訪れたのか、答えははっきりしている。Escape Sanctuary「アリス・マーガトロイドは心が怖い」を読んでからだ。
この記事はこの作品の感想記事であると同時に、タイトル通りの備忘録となる。私が今まで触れてきた数多の物語たちからどのように影響を受けて、自分の中に幻想郷を作り上げていったのか。それを一から綴っていかないと、この作品から得た感慨を書き切る事はできなくてだね…。
というわけで激寒自分語りが多分に含まれる文となってしまう。物好きな方や近い未来この文を見返しているであろう私は是非是非最後まで読んでもらえたらと。
1、キャラクターへのイメージはこう形作られる
まず初めに“人がキャラクターに抱くイメージはどうやって形作られるのか”を書いていきたい。そんなん読みたくねぇ‼︎って人は、要するに「最初に抱いたイメージがそのキャラへのそれをほぼ決定付けてるよ♪ よほどインパクトの強い作品に出会わないとそれは覆らないよ♪」ってことを言いたいだけなので、読み飛ばして下さいな。
さて、基本的にキャラへのイメージの土台は“最初に定めた定義”が形作る。例えばレミリアを例に挙げると、最初に定義した“彼女はこういうキャラクターだ”というイメージは“吸血鬼、紅い、カリスマ”という原作準拠の設定だったり。あるいは人によっては“吸血鬼、ロリ、う〜☆”という設定だったり。
そしてその最初に定義したイメージは基本的にそのキャラへのそれの根幹になる。よってキャラクターに触れた最初の作品の設定が、そのキャラへのイメージの半分以上を決定づけるといっても過言ではない。
いやいや、俺の第一印象と今の印象全然違うけど?っていう人は当然大勢いるだろう。そういう場合は2つのうちのどちらかを体験しているはず。
①最初の定義が違っていると自覚した場合
例えば最初に触れた二次創作作品と原作の設定が違っていたので修正した場合。あるいは性格のいいキャラだと思っていたら、後日ストーリーの途中でキャラが豹変した場合だとか。レミリアの例でいえば、”かりちゅまのイメージを抱いていたら原作ではカリスマだった”といった感じ。これはそのキャラを知ってから日が浅いとよく起こるが、イメージが定着しきってからはあまり起こらない現象と言える。
②根幹になっているイメージがひっくり返されてしまう程の強烈な作品に出会った場合
原作設定、正しい設定を頭ではわかっているが、二次創作物で受けたキャラへの印象は強すぎてそのイメージを抱いてしまっている場合などだ。レミリアでいうならば、”とある作品でレミリアの正体が黒死病そのものだったという設定があった。印象が強すぎて頭から離れねえ‼”みたいな感じ。
基本的には最初のイメージ、もしくは①によって塗り替えられた定義が強固な土台であり続ける。それに比べればそのあと積まれたイメージや知識がもたらす印象は微々たるものである。
要するに何が言いたいかというと、先ほども述べた通り「最初に抱いたイメージがそのキャラへのそれをほぼ決定付けてるよ♪ よほどインパクトの強い作品に出会わないとそれは覆らないよ♪」ということだ。
2、私と東方との出会い
では私が最初に振れた東方作品は何かと思い返してみる。ガチの最初は「真っ黒ナイトオブナイツ」
今でもよく聞く作曲者不明の名曲、これがきっかけで私は東方の存在を知った。しかし今考えたいのは最初に幻想少女たちへのイメージを形作った作品だ。ちょっとこの曲は違う。
それを思い出してみる。最初に彼女たちに触れた作品は氷蓮「【東方MMD】紅魔館:チケット争奪戦」だ。
<script type="application/javascript" src="https://embed.nicovideo.jp/watch/sm20942324/script?w=640&h=360"></script><noscript><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm20942324">【東方MMD】紅魔館:チケット争奪戦</a></noscript>
動画を視聴する前に(どうせハマるぞ?いいのか?)と自問自答した覚えがある。頭脳明晰キャラが繰り広げる頭の悪い知能戦が大好きだった私は案の定この作品を気に入り、そこから関連作品をあさって東方にハマることとなる。
そこから原作知識による多少のイメージの変化はあれど、私の中の幻想郷は「コメディ空間」からスタートしているのである。多くの作品に触れたがしばらくその前提が変化することはなかった。
3、凋叶棕襲来 そしてBAD ENDの輝く世界へ
ある時、とある曲に出会ってしまったがために私の幻想郷に大きな変化が訪れる。そう、凋叶棕「NeGa/PoSi*ラブ/コール」だ。
この曲を皮切りに凋叶棕曲はコメディ空間を悉く破壊していく。明確な区切りだ。もうこの先私の幻想が、少女たちがアホやっているだけの愉快な世界に戻ることは二度とない。
しかし私はこの新たな幻想郷に魅入られることになる。確かに凋叶棕によって塗り替えられた幻想郷は殺伐としたどす黒い空間になった。でもその世界は光に満ち溢れていたのである。なぜなら幻想少女たちの”意思”と”存在”がそこには色濃く表れていたから。私が心を囚われてしまった最大の理由だ。
凋叶棕曲では多くの少女たちが凄惨な末路を辿る。しかしその誰もが「私はこんなにも生きたかった‼」「私は世界を、誰々をこうしたかった‼こうありたかった‼」というような強い意志を持っているのだ。彼女たちの放つ輝かしい光は、ある時は真っ赤に輝く希望への光だったり、ある時は禍々しさを孕んだどす黒い光だったり、またある時は美しく清らかな澄んだ水色だったり…。
たとえ少女が世界に見捨てられて消え去ってしまう結末だったとしても、あるいは人々の記憶にすら残らず忘れられてしまう結末を迎えたのだとしても… そこには強い”光”が”意思”が”存在”が確かにあったというそれだけで私はそこに希望を、美しさを見いだせる。そういう点で、凋叶棕曲によって彩られた私の幻想郷は希望に満ち溢れた世界であった。
そしてその光を求める欲望が加速したのは四面楚歌「生前葬」に出会ったから。凋叶棕「The beautiful world」によって秘封俱楽部熱が高まったところで読んでしまったから、もう沼から脱することはできない状態に。
これを皮切りに秘封界隈にドはまりすることになる。こいつらいつも死んでんなと言いたくなるような強烈な作品群。それらに描かれる蓮子とメリーはとてもまばゆい光を放っていた。
4、意思と存在の否定、幻想郷の新たな区切り
以前考えたことがある。もし”意思”や”存在”すら否定されてしまう物語があったとしたら、それに触れたとき私の幻想郷はどうなってしまうのだろうかと。しかしそんな物語はあり得なかった。
まず”そもそも登場人物に強い意志の宿っていない物語”ならば私の幻想郷に影響を与えてこない。次に”登場人物の意思が作中で’無駄だった’と完全に否定されてしまう物語”。これはきついね~報われないね~。でもそこには確かに意思が存在していた。たとえその意思こそが救いようのない結末にたどり着いてしまう原因だったのだとしても、その意思が光り輝いていたという事実は消えない。その身を燃やし尽くしながら前へ進もうとしたというその強さは否定されない。
私の幻想郷においてその光は絶対的であった。もっと幻想少女たちの強い光の美しさに魅入られたくて、数多くのBAD END作品に触れていったのである。
しかし幻想郷の崩壊は突然に起こる。あり得なかったはずの”意思”の、”存在”の否定は起こりうると知ってしまったのだ。そう、Escape Sanctuary「アリス・マーガトロイドは心が怖い」によって。ここからネタバレ注意
この物語で訪れる悲劇、それは”為り変わり”である。主人公「Alice」は自分とそっくりな容姿をした人形に魔力、知識、を分け与えることによって念願の完全自立人形「Arice」を作り上げる。しかし完璧が過ぎてしまった「Arice」は次第に主に牙をむき始め、悪魔的なまでの策略によって最後には「Alice」となり替わってしまうのである。「Arice」が大勢の大衆の前で自らは人間であると証明してしまったあのシーン、完全に血の気が引いてしまった。首元にナイフを突きつけられたような感覚っていうのはこういうことを言うんだろうなと。
さて、この“為り変わり”は今まで触れてきた悲劇と決定的に異なる点がある。どんな凄惨な結末を迎えようとも決して無くならなかった、「少女たちの“意思”と“存在”がそこにあった」という事実。それが奪われてしまう。「Alice」がこれから辿るはずだった道、抱くはずだった思い、関わるはずだった全ては愚か、彼女が今まで辿ってきた道、抱いた思い、関わりあった全てもが「Arice」のものとなってしまう。そこに「Alice」が存在していたという事実は残らない。彼女の“意思”と“存在”は消え去ったのではない、“無かった”事になったのだ…。これ以上の絶望があるだろうか。
今までに為り代わりによるBAD END作品はいくつか見たことがあるが、ここまでの衝撃を叩きつけてきたものは1つたりとしてなかった。基本的に小説を読んでる最中にこういうことを考えている訳ではないので、この衝撃自体は巧みなストーリー展開と恐怖感を煽る洗練された描写によるものなのだろう。
しかし「Alice」の結末を見届け、彼女に想いを馳せた時、これ以上ない深い絶望に気がついてしまった。あれだけ眩い輝きを放っていた光は絶対では無かった。この物語の1つ前にEscape Sanctity「本居小鈴は識が怖い」をよみ、“知ること”の恐怖を知ったことも大きく影響しているのだろう。
光の非絶対性を知ってしまった以上、これによって支えられていた私の幻想郷は崩壊から逃れることができない。こうして希望に満ち溢れていた世界は消失し、1つの終わりを迎えたのである。
5、愛しき幻想の為の備忘録
さて、崩壊した私の幻想はどのように再構築されて今は何によって支えられているのか、それはまだ分からない。今の所わかりやすく表れている変化は、最初に記した通り“幻想少女達の笑顔を見ると、寂しさとやり切れなさが混じった感情を抱いてしまう”程度のものだ(この変化を“程度と言ってしまったいいのか怪しいが…)。
「東方project」という作品群が私の記憶に残っている以上、幻想郷は私の中から無くなった訳ではない。しかしあの“意思”と“存在”の光に満ち溢れていた世界が消失してしまった事は事実なのだ。私はこの先出会う物語達に、今私の中にある幻想を通して触れていく。とても喜ばしいことじゃないか、それは人の人生観ならぬ幻想観を変え得るだけの素晴らしい物語に出会えた証拠なのだから。「幻想とは何か。己が答えを胸にした者だけが読み進めよ。ここには、貴方の幻想を侵すかもしれない、私だけの幻想が記されている」全くもってその通りだった。
しかしパロディ空間が凋叶棕によって塗りかえられた時と同様、二度と元には戻れない。再びあの愛しい世界を通して幻想を垣間見ることは叶わない。言ってしまえばなんて事はない、「新たに触れた物語に受けた衝撃によって世界観が変化した」たったそれだけのことである。でも私にはそうやって簡単に割り切ることが出来ない。
だからこそ私は想いを綴らずにはいられなかったのだ。他の光り輝く美しい世界が時とともに風化していってしまうことが許せなかった。この文章は今は亡き愛しき幻想を忘れえぬものにする為の備忘録だ。
そう遠くない先、新たな幻想と共にあることが当たり前となった私は、きっとこれを見返すだろう。その時のために書き記しておこう。「幻想郷は、幻想少女達の生み出す光に彩られた私の世界は、これ以上ない程に美しかった。」これが今の私の綴ることの出来る精一杯の“意思”と“存在”の証拠だ。
ふふ、きっとこの“備忘録を書かずにいられなかった”という衝動もEscape Sanctuary「新訳 忘れ去られた少女」の影響を強く受けていることによるものなんだよなぁ。全く、著者さんの作品の虜だよ本当に。
これでこれからも後腐れなく物語達の関わっていくことができるね。そもそも論として、普通は原作が強い影響を持つ以上、人によってこれだけの世界観の差は出ないと思うんだ。二次創作という素晴らしい文化が発展している東方だからこそ起こり得たことなんじゃないかとなと。そういう点でも東方という作品に出会えてよかったと思う。
幻想の生みの親ZUNさん、今は亡き幻想を彩る素晴らしい作品を創り出してくれたクリエイターの方々、そしてこれだけ私の心を揺さぶってくれたEscape Sanctuary 五十嵐月夜さん(なんだかこの文だと褒めてんのか貶してるのか分からない感じですが…、本当に心を打たれました。是非これからも存分に道連れにしていただければと)に最大級の感謝を述べたい。ありがとうございましたああぁぁぁぁぁっ‼︎(新刊リスペクト)
さてさて、まだまだ読めていない作品達が山ほどあるんだ。私の中に宿った新たな幻想郷と共に数多の世界を巡っていこう。いつかあの愛しき世界に想いを馳せたくなって、この備忘録を読み返す時が来ることを願って。
p.s.ふつうに自分の言葉で書いたつもりだったのに、なんだか何処かで見たような文章構成になってるのはなんでだろなぁ…
Escape Sanctuary「アリス・マーガトロイドは心が怖い」によって消失した、愛しき幻想の為の備忘録