ユトリーヌの東方同人備忘録

幻想をわすれえぬものにする為に…

凋叶棕アルバム“徒”より「ロストドリーム・ジェネレーションズ」

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  どうもユトリーヌです。今回は凋叶棕の“自由”をテーマにしたアルバム「徒」より、「ロストドリーム・ジェネレーションズ」について綴っていく。

  この曲を選んだ理由は単純。前記事にて凋叶棕合同「幻想物語寄稿集」に触れて来たわけだが、その作品の中の1つ「幻想の旅人」の解釈が非常に難しい。大まかな流れは分かっても、キャラの心理描写なりは原曲を理解してなきゃ分からねぇ!ということで、ここで一旦整理しておこうというわけだ。

 

  以下ネタバレ。J-POPとかしか知らない人からしたら、曲でネタバレって何だよ⁉︎ってなるだろうから凋叶棕は凄い。

 

 

 

 

 

   まず最初に考察の結論から言っておこう。この曲は、

  ⚪︎RDさんと神主が、この曲を聞いている私達に進むべき道を提示した曲

⚪︎逆説的蓮メリちゅっちゅ

である。順に説明していこう。

 

 

  曲の概要とテーマは、凋叶棕考察wikiの記述が非常に分かりやすい。

 

二十世紀の旅人。
二十世紀のノアの箱舟は、期待と不安を乗せて宙を飛んだ。
だが、期待だけを月に置き忘れてきてしまったのだろうか。
未来と言われていた二十一世紀には、不安とほんの少しの幻想だけ
しか残されていなかった。
(東方永夜抄MusicRoom 「ヴォヤージュ1969」)

上記の曲コメントを元ネタとしたRDさんお気に入りの一曲。
1969年はアポロ11号が人類初の有人月面着陸を成功させた年。
月面着陸という夢を成し遂げた20世紀の人々と新たな夢を見い出せずにいる現代人の苦悩がテーマ。

                           凋叶棕考察・小ネタwikiより

 

  これを踏まえてストーリーを解釈していこう。歌詞にちゃんと現れてるから考察しやすい部類かな。

 

  大前提としての定義

⚪︎夢:将来実現させたい願望

⚪︎幻想:現実に満たすことのできない願望

 

  言葉の定義通りだと、「夢の代わりに幻想を求める」というのは現実逃避みたいな悪い意味合いに見えてしまう。だがこの東方界隈において「幻想を求める」という事をそのような悪い意味合いとしては取るのは浅はかであることは言うまでもない。

 

  原曲は「ヴォヤージュ1969」。1969年、アポロ11号は期待と不安を抱いて旅立ち、人類史上初の有人月面着陸を成功させた。ニール・アームストロング船長は語る、“That's one small step for man, one giant leap for mankind.”二十世紀の旅人たちは尊い光を放つ「未来」に“夢”や期待をこめて未知を暴いていった。

  そしてその“夢”の続きを託され「未来」を生きる二十一世紀の旅人たちは、しかし世界に対して“夢”を見出せない。当たり前だろう、未知という未知が暴かれ続けたこの世界に、冒険の余地など何一つ残されていないのだから…。

 

  二十一世紀の僕らは思う。「期待と不安を抱いて旅だったあの旅人は、期待を月に置き忘れて不安だけを持って帰って来てしまったのか…?」「いやそもそも、二十世紀の旅人たちが“夢”を追いかけた結果がこの世界ならば、そんなものただの妄想“偽りの幻想”でしか無かったのか…?」

 

  “Does that one small step for man really become a giant leap for mankind-?'' 

 

  ぼくらは新たな“夢”を求める、しかしその余地はもうどこにも残されていない。そうして代わりに手繰り寄せたもの、それが“幻想”。しかし皮肉なものかな、そうして手に入れた“幻想”でさえもきっとぼくらはいつか暴かずにはいられない。

  ならばせめて…ひとつで構わないからせめて、夢の無いぼくらに“夢”を、“幻想”をひとつ…!

  かの旅人が持ち帰って来た不安とほんの少しの“幻想”を抱いて、求め、叫び、探す。それが行先もわからぬ「未来」に生きていくぼくらが唯一できること…。

 

 

 

 

    ここから考察。

「ロストドリーム・ジェネレーション“ズ”」がどの世代を指すのかはRDさんがツイッターで報告してる通りで、

 

  ⚪︎偽りの夢を抱えていた二十世紀の旅人たち&夢を持たない二十一世紀の旅人たち

  ⚪︎東方世界における“現実”の世代(秘封もここに含まれる)&ガチ現実世界のこの曲を聴いてる私たち(RDさんもこっち側)

 

  そう、秘封倶楽部がいるような東方世界の現実は夢と希望をなくしてしまったんだぜ…というだけの曲ではない。私たち自身の世界をも憂いた曲なのである。

  

  それでは私たち“ロストドリーム・ジェネレーションズ”は幻想を探すためにどこへ向かっていけばいいのか。実は答えは他ならぬRDさんが提示してくれているのである。すなわち「空を翔べばいい」。

 

  凋叶棕曲に、ひいては幻想郷において「空を翔ぶ」というのはどういう事なのか。それは最初のボーカル曲で示されている。そう、「空を翔ぶ」それ自体が幻想。そしてそれに想いを馳せること、それも「幻想」

 

「ヤタガラスカイダイバー」自らと同じ光という幻想を求めた少女が空に飛び出していったように…

「スターシーカー」自分の物語を創るという幻想を求めた少女が空を見上げたように…

「パラレルスカイ」幻想をその身に塗れさせた少女が空に吹き上がったように…

  そして何より博麗の巫女にして幻想の象徴である霊夢の能力が「空を飛ぶ程度の能力」であるように…

  未だ見ぬ幻想を求めて空を翔ぶ、空に想いを馳せる、それはまさに「幻想浪漫綺行」

 

  それでは私たちも想いを馳せてみよう。空を翔んだ先には何が…?あるじゃないか、先の旅人が期待を置き忘れた月が、宇宙が。

 

  「大空魔術」のあとがきを開いてみよう。神主だってこう言っている。「宇宙に行きたくなかったら、他にどこに行きたい場所があるって言うんですか」と。

 

  幻想の創造主2人が共に「空を翔ぶ」ことに幻想を抱いているのだ。もし想いを馳せるのが神主のようにこの現実世界であれば、宇宙に行くという幻想が浮かび上がるだろう。もし想いを馳せるのがRDさんのように幻想郷なのであれば、様々な楽曲に描かれているような幻想が浮かび上がるだろう。そう、私たちも各々の空を翔べばいい。それが幻想を求める私たちの進む道だ。

  

  ちなみに「この世界の仕掛けが全て見えている」状態で、まさにロストドリーム・ジェネレーションズの中にいる宇佐見蓮子は、幻想をその瞳に写す事の出来るメリーと共にいる事を選んだわけだが…。そう考えると秘封倶楽部がより魅力的に見える事だろう。実はこの曲は蓮メリちゅっちゅでもあったりする。

 

  

 

  

  以上が「ロストドリーム・ジェネレーションズ」の考察だ。私たちへのメッセージと強い幻想が込められた、聞いた者を深く考えさせる楽曲。基本的に幻想少女たちの姿を描く凋叶棕曲の中では異質な部類に入るのでは?  RDさんのお気に入りであるあたり、様々な幻想を生み出す上でこの概念が基になっているのかなとも考えたり。

 

  幻想を瞳に映せないしそんなパートナーもいない私は、これからも凋叶棕曲を通して幻想郷の空を翔ぼうと思う。